皮を剥ぐという行為【神話にみる皮膚と変身】

皮膚は、身体の外側の境界である。ここから内が自分で、ここから外が世界だという線を引いている。
その境界を失うこと、あるいは他者の境界を身に着けること。神話には、この二つの主題が繰り返し現れる。剥ぐ話と、纏う話だ。そして両者は、同じ一つのことの裏表になっている。
剥がれるという罰
ギリシャ神話に、マルシュアスという半人半獣の存在が登場する。
女神アテナは、吹くと頬が膨らんで顔が醜くなるという理由で、自ら作った笛を捨てた。それを拾ったのがマルシュアスである。彼は笛の名手となり、やがてアポロンの竪琴にも勝ると評されるまでになった。
増長した彼はアポロンに音楽の技比べを挑む。しかし審判を務めたのはアポロンの側に属する女神たちであり、当然のように敗れた。そして罰として木に吊るされ、生きたまま全身の皮を剥がれた。
流れ出た血、あるいは彼の死を悼む者たちの涙は、やがて川になったとされる。フリュギアの地を流れるマルシュアス川がそれで、現在はチネ川と呼ばれ、今もトルコを流れている。
この逸話が後世の画家たちに繰り返し描かれてきたのは、単に凄惨だからではないだろう。神に挑んだ者が受ける罰として、皮を剥ぐという方法が選ばれている点に意味がある。命を奪うだけなら他の方法がある。皮を剥ぐことは、その存在を存在たらしめている境界そのものを奪う行為である。
キリスト教にも、皮剥ぎによって殉教したとされる聖人がいる。聖バルトロマイである。絵画において、彼はしばしば自分の皮を手に持った姿で描かれる。皮を失った者が、その皮を持っている。境界が身体から分離して、持ち運べる物になっている。
纏うという変身
一方で、皮は身に着けられるものでもある。
北欧の伝承に登場するベルセルクは、狂乱状態で戦ったとされる戦士たちだ。この語の古ノルド語形はberserkrで、berとserkrの合成語である。serkrはシャツを意味し、berは一般に熊を指すと解釈されている。したがって全体としては熊のシャツ、すなわち熊の毛皮で作った外套を纏う者を意味すると考えられている。
同様の存在にウールヴヘジンがある。こちらは狼の上着を着た者という意味で、ベルセルクと並び称され、また同一視されることもある。
彼らは毛皮を纏うことで、その獣の力が自らに乗り移ると考えていたとされる。戦場では敵味方の区別すらつかなくなり、戦いのあとは虚脱状態に陥ったという。
ここで起きているのは、単なる装備ではない。皮を身に着けることで、着ている者が別の存在になる。人が獣になる。皮膚という境界を上書きすることで、内側にあるものまで変わってしまうという発想である。
ヘラクレスが倒したネメアの獅子の皮を纏って以後の姿を定めたのも、同じ系列にある。
なお、この語源には別の解釈もあった。13世紀の歴史家スノッリ・ストゥルルソンは、berを裸を意味する語と取り、鎧を着けずに戦ったことを指すと解釈している。ただしこの説は、矛盾する証拠と根拠の乏しさから、現在では概ね放棄されている。
二つは同じことをしている
剥ぐことと纏うこと。一見すると正反対だが、前提は共通している。
どちらも、皮膚が着脱可能なものとして扱われている。剥げるということは、外せるということだ。そして外せるなら、着せられる。身体に固定された不変のものではなく、移し替えのできる層として捉えられている。
そう考えると、罰として皮を剥ぐことの意味も明確になる。剥がされた者は、境界を失う。同時にその皮は、誰かが纏える物になる。マルシュアスの皮は木に吊るされたままだったと語られるが、聖バルトロマイの図像では本人が持っている。いずれにせよ、身体から分離した皮は、それ自体で存在し続ける。
境界を奪われた者と、境界を手に入れた者。神話における皮の話は、たいていこの二つの立場のどちらかを描いている。
なぜ皮なのか
身体の一部で、これほど象徴的に扱われる部位は他にない。
理由の一つは、皮膚が唯一の境界だからだろう。骨も内臓も、身体の内側にある。皮膚だけが、自分と世界の接触面になっている。触れるとき、触れられるとき、必ず皮膚が介在する。
もう一つは、動物の皮が実際に使われてきたからだと思う。人類は太古から獣を狩り、その皮を剥ぎ、身に着けてきた。神話が語る変身は、実際に行われていた行為の延長線上にある。毛皮を着た人間は、遠目には獣に見える。それが儀礼と結びつき、力の移譲という観念になるまでに、それほどの距離はない。
皮を剥ぐという行為は、生活の技術であり、同時に象徴的な操作でもあった。生きるために必要な作業が、そのまま世界の理解に接続していた。
手元にあるものについて
ここからは私見になる。
現在、私たちが身につけている革製品も、元をたどれば同じ行為の産物である。動物から皮膚を剥ぎ、加工し、身に着ける。工程は工業化され、意味づけは失われたが、していることは変わらない。
ただし、決定的に違う点がある。神話における皮は、剥がれてもなお元の存在と結びついていた。熊の皮には熊の力が宿り、マルシュアスの皮はマルシュアスのものであり続けた。
現代の革は、そうではない。鞣しという工程を経ることで、それが何の皮膚だったかという情報は切り離される。財布を見て牛を思い浮かべる人は少ないだろう。素材として完全に自立している。
この切断は、失われた感覚と見ることもできるし、加工技術の到達点と見ることもできる。ただ、身につけているものが元は誰かの境界だったという事実は、変わらずそこにある。
前に書いたとおり、革が数千年にわたって使われ続けてきた理由の一つは、修理して使い続けられることだった。使い込まれた革は、使った人の形に馴染んでいく。かつて誰かの境界だったものが、今度は別の誰かの身体に沿っていく。
神話が皮に象徴を見たのは、それが移し替えのできる境界だったからだ。その性質は、今も失われていない。
◆【関連する記録】
(素材を火と土に預けるという主題について)
(作品名の由来となった、熊の毛皮を纏う戦士について)
(皮が革になるという工程の意味について)
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著者:ツダイサオ(Tsuda Isao) 革で架空の遺物を再現するレザーアクセサリーブランド「StrangeArtifact」主宰。衣装・空間・3Dと領域を横断して世界観をかたちにするデザイナーであり、一般社団法人 日本スチームパンク協会の理事も務める。h.NAOTOやSheglitとのコラボレーション、各種メディアへの衣装提供など実績多数。


