指輪物語の言語と神話【なぜ言葉が先に生まれたのか】
- 8月16日
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『指輪物語』の制作過程には、他の多くのファンタジー作品と決定的に違う点がある。作者は物語を書くために言語を用意したのではない。言語のために、それを話す人々の歴史として物語を作った。順序が逆なのだ。
この一点を押さえておくと、中つ国の固有名詞がなぜあれほど整合的な響きを持っているのか、そして北欧神話やケルトの言葉がどのように取り込まれているのかが見えてくる。
言語が先にあった【文献学者としてのトールキン】
J・R・R・トールキン(1892年から1973年)は、古ゲルマン語派、とりわけ古英語を専門とする文献学者だった。オックスフォード大学で長く教鞭を執った、職業としての言語研究者である。
そして言語の創造は、彼にとって生涯続いた趣味だった。13歳になったばかりの頃にネヴボッシュ(Nevbosh)という最初の言語を作り上げ、亡くなるまで言語を作り続けている。
重要なのは、彼が「言語はそれを話す人々の歴史なしでは不完全である」と確信していたことだ。作った言語に現実感を持たせるためには、その言語がどこで生まれ、どう変化し、誰が使ってきたのかという時間の厚みが要る。神話の創造は、言語の創造から必然的に導かれた作業だった。
この姿勢は、彼が自作に対して取った立場にも表れている。トールキンは自らを著者としてよりも、古い文書を発見して英語に移した翻訳者、編集者として振る舞った。中つ国の物語が「発見された古文書」のような体裁を取っているのは、そのためである。
二つのエルフ語【フィンランド語とウェールズ語】
トールキンが最も深く作り込んだ言語は、クウェンヤとシンダール語の二つである。
クウェンヤの土台になったのはフィンランド語だ。特にその形態論、名詞の格変化や動詞の活用といった語形変化の仕組みが取り込まれている。研究対象だったギリシャ語、ラテン語、ウェールズ語からも要素が入っているとされる。
シンダール語のほうは、ウェールズ語の音韻が取り込まれている。子音の変化や語の響きが、ウェールズ語を知る人には馴染みのあるものになっている。
そして作中では、この二つが単純に並列されているわけではない。物語の時代である第三紀において、クウェンヤは日常語ではなくなっており、公式な名前や著作、儀礼や詩といった高尚な用途に限られていた。日常的に話されているのはシンダール語のほうだ。クウェンヤはしばしば「中つ国のラテン語」と説明される。
古典語と日常語が二層に分かれ、古い言語が儀礼と記録の中に化石のように残る。これはヨーロッパの言語史でラテン語が辿った道そのものである。架空の言語に、実在の言語が経験した時間の構造がそのまま移植されている。
さらにトールキンは、これらを書き記すための文字体系(テングワール)まで作っている。言語、文字、その使用者の歴史。三つが揃って初めて実在感が出るという判断だったのだろう。
一行の古英語から始まった【エアレンデル】
この壮大な体系の出発点は、たった一行の古英語詩だったとされる。
アングロ・サクソン期の宗教詩人キュネウルフの『キリスト』に、エアレンデル(Earendel)という語が現れる箇所がある。もっとも明るき天使よ、中つ国(middangeard)の人々の上に遣わされた者よ、と呼びかける一節だ。
トールキンはこの Earendel という語に強く打たれた。古英語の中に、意味の掴みきれない、しかし明らかに何か大きなものを指している言葉が残っている。そこから『シルマリルの物語』の登場人物エアレンディルが生まれ、ひいては中つ国の神話体系全体が広がっていった。
同じ一節にある middangeard も見逃せない。これは古英語で人間の住む世界を指す実在の語であり、北欧神話のミズガルズと同じ系統の言葉だ。つまり「中つ国(Middle-earth)」はトールキンの造語ではなく、古い英語に実際にあった世界の呼び名を復活させたものである。
北欧神話からの借用【名前と物語の型】
北欧神話からの取り込みは、名前の水準で特にはっきりしている。
『ホビットの冒険』に登場するドワーフたちの名前の多くと、そしてガンダルフの名は、『古エッダ』の「巫女の予言」に含まれる小人の名の一覧(ドヴェルガタル)に見出せる。すでに存在した名前のリストから、彼は登場人物を立ち上げた。
ガンダルフの人物像についても、トールキン自身がオーディン的な放浪者と見なしていると述べている。旅人の姿で世界を歩き、知恵をもたらし、正体を明かさない老人。北欧神話のオーディンが取る典型的な姿である。
地名にも同様の対応がある。闇の森(Mirkwood)は、古ノルド語の Myrkviðr、すなわち古い北欧の詩に登場する暗い森の名を英語に移したものだ。
呪いのかかった指輪という道具立て自体にも、北欧の先例がある。『ヴォルスンガ・サガ』などに語られる、小人アンドヴァリの黄金の指輪だ。持ち主に破滅をもたらす環という発想は、ここに原型がある。ただしトールキンは、自作をワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』と比較されることを好まなかった。どちらの指輪も丸い、共通点はそこまでだ、という趣旨の言葉を残している。
そして『シルマリルの物語』の上位存在ヴァラールには、ギリシャ神話と北欧神話の両方の要素が指摘されている。高い山に住み人間から隔絶している点はオリュンポスの神々に近く、その長マンウェはオーディンと重なる特徴を持つ。
借りたのは音であって、物語ではない
ここまで並べると、中つ国は既存の神話の寄せ集めのように見えるかもしれない。しかし実際に起きていることは、もう少し複雑である。
シンダール語はウェールズ語の音韻を取り込んでいるが、ケルト神話の物語をそのまま移植しているわけではない。借りているのは音の質感であって、筋書きではない。北欧神話についても、名前のリストは借りたが、その名を与えられた人物たちは元の神話とは別の生を生きている。
そしてトールキン自身の作業が進むにつれて、どの語がどこから来たのかを特定することは次第に難しくなっていった。彼の存命中からエルフ語の語源を実在の言語に求める試みは行われていたが、その多くは信憑性に乏しいものだったとされる。素材の出所は、体系の中に溶けて見えなくなっていったのだ。
これは、断片だけを提示して背後の全体像を推測させるタイプの作品とは、方向が正反対である。トールキンは背後の体系を徹底的に作り込んだうえで、その一角だけを物語として見せた。片方は空白を作ることで奥行きを生み、もう片方は実在する奥行きの手前だけを見せる。手法は逆でも、読者が「この向こうにまだ何かある」と感じる点では同じ結果に着地している。
言葉には、それを使ってきた人々の時間が沈殿している。トールキンが古英語の一語から神話を立ち上げたのは、言葉がすでにそういうものだと知っていたからだろう。文献学者が作った物語であることの意味は、おそらくそこにある。
◆【関連する記録】
(ドワーフの名前やオーディンの人物像の出どころとなった神話)
(シンダール語の音の源流にあるウェールズの言語と伝承)
(同じ神話素材を、正反対の手法で扱った作品との比較)
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著者:ツダイサオ(Tsuda Isao) 革で架空の遺物を再現するレザーアクセサリーブランド「StrangeArtifact」主宰。衣装・空間・3Dと領域を横断して世界観をかたちにするデザイナーであり、一般社団法人 日本スチームパンク協会の理事も務める。h.NAOTOやSheglitとのコラボレーション、各種メディアへの衣装提供など実績多数。


