紋章学入門【家紋とヨーロッパ紋章】
- 8月13日
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盾に描かれた獅子と、着物の背に染め抜かれた丸い文様。ヨーロッパの紋章と日本の家紋は、どちらも「これは誰のものか」を一目で伝えるための記号だ。役割が似ているため並べて語られることが多いが、生まれた経緯も、運用の仕組みも、かなり違う。
そして両者には、あまり指摘されない共通点がひとつある。どちらも最終的には「刻まれる」ことを前提に成立した図案だという点だ。
ヨーロッパの紋章はなぜ生まれたか【顔が見えない戦場】
紋章の起源としてよく語られるのは、十字軍と甲冑の発達である。全身を鎧で覆い、兜で顔を隠した騎士は、そのままでは誰なのか判別できない。敵か味方か、どこの家の者かを遠くから見分ける手段が必要だった。
ただし、紋章がいつ始まったかを一点に定めることはできない。1066年のノルマン人によるイングランド侵攻を描いた『バイユーのタペストリー』(11世紀後半の制作とされる)には、さまざまな形の盾を持つ騎士が描かれているが、そこに世襲される紋章の体系は見られない。同じ人物が同じ図柄を繰り返し用いる、という規則性がないのだ。
体系として立ち上がってくるのは12世紀に入ってからで、1135年から1155年頃にかけて、イングランド、フランス、ドイツ、スペイン、イタリアで、印章に紋章的な図案が採用されていく動きが確認できる。ザクセン公ハインリヒ獅子公の印章のうち、盾に獅子を描いたものは1146年の文書に付されている。
現存する最古の彩色された紋章の描写とされるのが、1151年に没したアンジュー伯ジョフロワ・プランタジネットの墓を飾ったエナメル板だ。青地に金の獅子。この図柄は孫の代にも受け継がれ、のちのイングランド王家の獅子へとつながっていく。ここで初めて、紋章が「一代限りの目印」から「受け継がれるもの」に変わった。
色と文法【遠くから見えることが第一】
紋章に使える色は、極端に限定されている。紋章学ではこれをティンクチャーと呼び、基本は9色である。
金属色(メタル)が2色。オーア(金)とアージェント(銀)で、それぞれ黄と白で描いても金属色として扱われる。原色(カラー)が5色。アジュール(青)、ギュールズ(赤)、パーピュア(紫)、ヴァート(緑)、セーブル(黒)。そして毛皮模様が2種、アーミンとヴェアだ。
さらに、色の上に色を、金属の上に金属を重ねないという基本原則が育った。金属と原色を必ず組み合わせることで、離れた距離からでもコントラストが保たれる。デザインの美意識ではなく、視認性の要求から出てきた規則である。
もうひとつ特徴的なのが、ブレイゾンと呼ばれる紋章記述だ。紋章は図として保存されるだけでなく、簡潔な定型の言葉で記述される。盾の実物が失われても、この記述さえ残っていれば図案を復元できる。図を言語に変換して保存する仕組みが、紋章という制度の背骨になっているわけだ。
そして、印刷や刻印の世界には別の問題があった。エングレービングや硬貨の刻印では、色を使えない。そこで考案されたのが、それぞれの色を点と線のパターンに置き換える表記法で、もっとも広く用いられたのが「ペトラ・サンクタの手法」である。横線なら青、縦線なら赤、というように、色を線の方向として刻む。色を諦めた場所で、紋章は線の言語へと翻訳された。
誰のものかを厳密にする【個人に属する記号】
ヨーロッパの紋章のもうひとつの特徴は、それが家ではなく個人に属する点だ。親子であっても同一の紋章は用いない、という原則がある。
そのため、元の紋章に手を加えて区別する手法(ディファレンシング)が発達した。図形や地の色を変える、細い帯を加える、小さな図形を足す。イングランドでは長男以下を区別するためのケイデンシー・マークという体系が、15世紀から16世紀初頭にかけて整えられていく。
こうした管理を担ったのが紋章官(officers of arms)である。誰がどの紋章を用いてよいかは、個人の自由ではなく、権威によって認可される事柄だった。紋章は制度なのだ。
日本の家紋はどこから来たか【牛車の文様】
一方、日本の家紋の出発点は戦場ではなかった。
有力とされるのは、平安時代中期から後期にかけて、公家が牛車に付けた文様に始まるという説である。平安後期の貴族、藤原実季の牛車に巴の紋が入っていたという例が知られている。当時の貴族社会には明確な序列があり、路上で牛車がすれ違う際には身分の低い方が道を譲る必要があった。誰の車かが遠目にわかることには、実用的な意味があったのだ。
武家が家紋を用いるようになるのは、これより遅れて平安末期、源平の対立が激化した時期である。源氏の白旗、平氏の赤旗のように、まずは色による識別があった。そこから、自分の働きを証明し、名を残すために、各自が考えた図象を旗や幕にあしらうようになる。武蔵七党の児玉党が軍旗に描いた唐団扇が、のちの軍配団扇紋につながる例として知られている。
爆発的に広まるのは鎌倉時代以降で、中期にはほとんどの武士が家紋を持つようになった。戦場での識別だけでなく、戦後の論功行賞、つまり誰がどの働きをしたかを確定させる場面で、家紋は大きな意味を持った。
室町時代に入ると、旗や幕に描いていた家紋を衣服に付ける習慣が広まる。のちの羽織袴に家紋があしらわれる形は、この延長線上にある。江戸時代には家ごとの定紋が整理され、明治以降は身分に関係なく広く用いられるようになった。
二つの体系の違い
整理すると、違いは大きく4点にまとめられる。
管理の主体。ヨーロッパでは紋章官が認可し、記録し、争いがあれば裁定した。日本の家紋に中央の管理機関はなく、原則として自由だった。ただし他家と紛らわしいものは避けるという暗黙の了解があり、また徳川家の葵紋のように、特定の紋の使用が強く制限された例もある。
色。ヨーロッパの紋章では色が意味の一部であり、色が違えば別の紋章になる。日本の家紋は基本的に単色で、輪郭と構成だけで区別する。染め抜きという技法とも相性が良く、白と黒の対比で完結する。
帰属。ヨーロッパの紋章は個人に属し、区別のための加筆が前提になる。家紋は家に属し、同じものが継承される。
かたち。紋章は盾という輪郭を持ち、日本の家紋の多くは円に収まる。円は方向を持たないため、着物のどこに置いても、どちらから見ても成立する。
刻むための図案という共通点
これだけ違う二つの体系が、最終的に近い場所に行き着いているのは興味深い点だ。どちらも、刻まれ、押され、染め抜かれることを前提とした図案だからである。
紋章は封蝋の印として押され、墓石に彫られ、指輪の印面に刻まれた。家紋は染め抜かれ、彫られ、鋳込まれた。どちらの場面でも、色や陰影は失われる。残るのは輪郭と、白黒の面の配分だけだ。
ペトラ・サンクタの手法が、色を線の方向に翻訳して刻印に対応したことは先に触れた。日本の家紋は、そもそも最初から色を持たない設計になっていたと言える。到達点は似ていて、経路が逆だったわけだ。
図案が単純であることは、貧しさではない。押しても、彫っても、遠くから見ても壊れないという条件を満たした結果、残った形である。企業のロゴマークが今も単純な輪郭を選び続けているのは、この条件が現代でも変わっていないからだろう。
一目で誰のものかがわかる。触れば凹凸として残る。紋章と家紋は、その二つを両立させるために何百年もかけて磨かれた、実用のデザインだった。
◆【関連する記録】
(図案を押して証明とする文化の、より広い歴史)
(紋章が指輪の印面に刻まれ、身分の証明として使われた系譜)
(紋章が実際に押される場面としての封蝋について)
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著者:ツダイサオ(Tsuda Isao) 革で架空の遺物を再現するレザーアクセサリーブランド「StrangeArtifact」主宰。衣装・空間・3Dと領域を横断して世界観をかたちにするデザイナーであり、一般社団法人 日本スチームパンク協会の理事も務める。h.NAOTOやSheglitとのコラボレーション、各種メディアへの衣装提供など実績多数。


